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つながり 2009.07.11

 日本を出てから髪を切っていないので、人生で一番くらい長くなってきている。とはいえまだ肩までしかなく、長さもそろっていないので、高いところで結ぶとえりあしあたりがほどけてくるし、低いところで結ぶと毛先が首筋にちらちらあたるし、どちらもとてもうっとうしい。ので、横にぐーっとひっぱって、ひとつにまとめて右耳のわきで結んでいる。快適だ。

 この結びかた(業界ではちゃんと呼び名があるんだろうか)をしているといつも思いだす人がいる。このように結んでいる女子生徒に「おい○○、片方足らんぞ!」と言っていた高校の英語の先生。長くつしたピッピみたいなふたつ結びを想定して「足らない」ということか…?さして受けてもいないのになぜか満足げな笑顔とか、独特の声の調子がふっと蘇ってくる。今思えばとんでもない英語の発音や、最後に会ったときのこと。わたしの合格を喜んでくれたこと。病院の匂いと春の陽ざしの映えるシーツの白い色など。病床を訪ねて数週間後、京都の下宿にぴかぴかの新生活グッズを運び込んでいるときに、彼の訃報を受け取った。もう2年以上前になる。

From Days


 先日、こちらでできた友達を初めて見送った。日本人だし同じ関西圏だし、帰ったらまた会えるだろうけれど、もちろん確証はない。日本人以外となれば尚更だ。移民の友達が、留学生は仲良くなったころにみんないなくなってしまうと言っていた。Torontoは「ひとが集まる場所」という意味のヒューロン語が語源だという説はデマらしい(参考)けれど、そんな説がまことしやかに広がって無理はない街だ。集まって、また散らばっていく結節点としての街。

From Days


 つながりという言葉についてこのごろよく考える。今、誰とはつながっていて、誰とはつながっていないのだろう。日本にいるひとと連絡をとる手段はほぼメールに限られている。自転車ですれ違っておはようだけ言うとか、たまたま道で出会ったからご飯を食べに行くとか、いろいろなつながりかたがあったはずなのに。

 そんな状態を感傷的にとらえすぎているのか、最近ひとと別れるときに、これが最後でも大丈夫だろうか?というようなことをよく考えてしまう。思い返せば京都にいたころ、忙しさやなんかにかまけて、大事なつながりをないがしろにしてはいなかったか。いまさらちょっと悔やんでみたりもしている。


 何人もの敬愛する狩猟採集民研究者が、遊動して暮らす人びとの「別れの美学」について語る。移動を常とし、出会いと別れのただ中で生きる彼らは、どんな相手ともできる限りなにごともないかのように別れようとするそうだ。1年以上をフィールドで暮らして帰る日の朝など、泣くおそれのある幼い子供はどこかへ連れて行かれるし、大人もしょうもない用事を言い訳に出かけていたりしてまばらで、周到に"なにげなさ"が演出されているのだとか。とても不確かなつながりの中にいる今、なんとなくその感覚が理解できるような気がする。美学それ自体ではなくて、その出どころであるところの感覚というか。

 この状態になってはじめて気づいた"つながり"への思いを、帰ってからも覚えていられるだろうか。いつまでなくさないでいられるだろうか。

From MOMO



 しばらく連絡のとれなかった大切な友達からメールがきて(ま、催促したのだけれど…)、とてもうれしかった。せめてもこの感じは、できるだけ、忘れてしまわないようにしたい。



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