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かてごらいず 2009.06.03

 カテゴライズについて考えていて(前エントリ参照)、すぐ思い出したのはこの文章。

 民族誌がそれについて語る対象とは、まず初めに厳密な限定を施されたうえで、それについての記述がなされるような対象ではない。それはむしろ、解釈を施されることによって1つの対象として開示される何ものなのかなのである。民族誌の主題が民族誌家の解釈によって総合的に構成されたのと同様に、その対象も解釈によって総合的に仮構され創り出されているのだ。民族誌が解釈の所産であり、それゆえ不可避的な循環のうちにあるということは、こうして記述以前に即自的に自存する対象であると捉えることの根本的な誤謬を示唆している。 (森山工 『墓を生きる人々―マダガスカル、シハナカにおける社会的実践』p.14)


(『エスノグラフィー・ガイドブック』のレビュー(※)にも書かれているけれど、「悪文ではないが読みやすいとも言い難い文体の特異性と理解したと思った瞬間に突き放されるような問題の展開構成」…)

筆者の先生のページで全文公開されていました。こちら



<出典>
墓を生きる人々―マダガスカル、シハナカにおける社会的実践墓を生きる人々―マダガスカル、シハナカにおける社会的実践
(1996/06)
森山 工

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<レビュー出典>
エスノグラフィー・ガイドブック―現代世界を複眼でみるエスノグラフィー・ガイドブック―現代世界を複眼でみる
(2002/01)
不明

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 人類学者/民族誌家の「目の前のそのひとがなにものであるか」をわかっていくための作業は、顔を見て名前を呼んで話をするというところから始まっているはずなのだけれど、それが民族誌というかたちをとると、読者にとってそのひとがなにものかという情報は"どこどこ"の"なになに人"という順番に入ってくる。フィールドワークの記録を経て理論形成に至る過程で、"なになに人"、"なんとか社会"、"なんとか民"…とカテゴリを広げていくことも避けられない。人類学の営み、民族誌を書くという作業が、最終的には人間について語ることを目的としている(とわたしは思っている)以上、このプロセスは不可避なのだけれど、カテゴライズに疑問を持ち始めてしまうと結構不自然なことなのではないかと思えてくる。


 そんなことをうだうだ考えてしまうのは、わたしが今「なにものでもない」からだろうか。この状態をわりと気に入っているけれど、不安になることもまったくないではない。日本で、不自由なカテゴライズがそれでも求められてしまうのは、自分がなにものか自分で決められない苦しさのせいなのかもしれない。



…なんだか青臭い落としどころになってしまったな…

青臭いついで。高校のときはまったけれど、今はさすがにそこまで没入できない。写真は好きだけどなぁ

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